2016/10/12 (水)
松山銀天街の沿革 昭和41年まで
銀天街がある場所には、江戸時代にはすでに商家が立ち並び、中の川を利用して小舟が物資を運搬していました。そのため『湊町』という町名になったそうです。
大正末期には共同施設として鈴蘭灯を建設し、鈴蘭灯に天幕をかけていましたが、太平洋戦争中に金属回収のため全部の鉄材を供出して、鈴蘭灯は、なくなりました。
終戦後、昭和28年10月にアーケードを建造しました。雨の日も濡れることなくお買い物ができ、おおいに賑わいました。
銀天街がある場所には、江戸時代にはすでに商家が立ち並び、中の川を利用して小舟が物資を運搬していました。そのため『湊町』という町名になったそうです。
大正末期には共同施設として鈴蘭灯を建設し、鈴蘭灯に天幕をかけていましたが、太平洋戦争中に金属回収のため全部の鉄材を供出して、鈴蘭灯は、なくなりました。
終戦後、昭和28年10月にアーケードを建造しました。雨の日も濡れることなくお買い物ができ、おおいに賑わいました。